私の人生軌跡

ここでは私の自己紹介をさせていただきます。

山田と申します。
1984年生まれ、獅子座のA型です。

私は今フリーランスとして執筆やサイト制作などの活動をしています。
これまで大学院を卒業し、メーカー、IT企業という職場を経て現在に至ります。
簡単ではありますが私の人生をご紹介します。

いじめられっ子で病気がちだった保育園時代

保育園の頃の私はとにかく病気がちでいじめられっ子という、典型的な弱い子供でした。
小児ぜんそくで2度入院していますし、月に何回も保育園を休んでいました。

保育園に行けばいじめられる毎日。倉庫裏に連れて行かれ、悪口や暴力、あるいは子供ならではの手加減なしのエゲツないこともされてきました。
非常におとなしく、無口で、女の子に間違われるくらいでした(女の子よりも弱い存在だったと思います)

引っ込み思案だったけど楽しかった小学校

以上のような性格だったので小学校に行ってもさほど活発な子供ではありませんでした。

私は忘れ物が多く、宿題もあまりやってこなかった子供だったので、先生にはしょっちゅう怒られていました。
当時は教師による体罰が問題になる前だったので、ビンタされたり頭を叩かれたりした思い出もあります。

保育園時代よりも減ったとは言え、いじめも受けていました。
女子からよく酷いことを言われてつねられたりしたものでした。

勉強は教科によってできたりできなかったり。国語や社会、理科は好きでしたが、算数と体育が苦手でした。
算数は分数が出てきたあたりからわからなくなり、その後中学以降の数学も苦手な状態でした。
体育は本当に運動音痴。かけっこではビリだったし、水泳は水が怖くて顔がつけられないくらい、全くできませんでした。

ただそんな中でも仲が良い友人も居たので楽しい子供時代を過ごしました。
田舎だったので川で釣りをしたり、山に秘密基地を作ったり、自然の中で遊ぶこともあれば、当時スーパーファミコンが発売されて人気だったので、友達の家に集まってスーパーファミコンで遊んでいました。

逆転した中学校

中学校になると隣の小学校からも生徒が集まり、大人数となります。
相変わらずコミュニケーションが下手な私は隣の小学校の子とはなかなか馴染めませんでした。

中学校に上がると英語の授業があります。
忘れもしません。中学校で最初の英語のテストはなんと30点。出る問題は「Hello」とか「How are you」くらいのものなのですが、そんな簡単なテストですら30点。
もちろんクラスでは最下位。親には将来心配されるし、塾の先生は見るに見かねて特別に無料で補講をしてくれたくらい…それくらい英語ができませんでした。

でもあることがきっかけで私は全くできなかった英語がクラスでも上位争いをするくらい、中学卒業までに英検準2級(高校生レベルなので中学生から見ると相当ハードルが高いです)を取得するまでになりました。
このきっかけについてはおいおいお話したいと思います。

国語や社会も得意でしたが、相変わらず数学と体育はダメ。
数学は「x」とか「y」とかわけわかんない記号出て来るし、体育は特にサッカーやバスケといった団体球技が苦手で、いつもチームメイトから責められていました。なので仮病を使って休むこともしばしばでした。
ただ、それ以外の教科はそこそこできたので(笑)地元の進学校に行くことができました。

部活に熱中した高校時代。初めての恋愛も

高校で一番熱中したのは部活でしょうか。
高校で部活動に強制的に入らなければいけなくて、運動音痴だったし、自転車で片道45分掛けて通学する生活を送っていたので、体育会系は無理だなと思っていました。
文化系でも書道部とか美術部は、美的センスがないし、吹奏楽は楽器が弾けないし……ということでコーラス部を選びました。
「コーラスなら中学校の時やってたし」という完全消去法で選択しました(苦笑)
しかし、それが正解だったと思います。

コーラス部は雰囲気が良く、皆仲良くしてくれましたので、引っ込み思案な私でもすぐに仲間ができました。
部活で喋っているうちに私の引っ込み思案で人見知りな性格も徐々に改善されていきました。
顧問は男の先生で、当時は頑固で厳しく、私も対立したことはありますが、現在でも一緒に社会人サークルでコーラスをやっていて、一生の師という存在になりました。

その先生が今の私の仕事であるライターの基礎を鍛えあげてくれたのですが、その話もおいおいしたいと思います。
また、高校時代に初めて彼女という存在ができました。
残念ながら彼女が遠くの大学に進学して遠距離となり別れてしまったのですが良い思い出です。

もちろん勉強も頑張りました。国公立目ざして受験勉強に励みましたが、相変わらず数学がダメで(赤点常連。0点取ったことすらあります)不合格。私立大学に進学しました。

当時、インターネットが流行りだした時代で(テレホタイムとかありました)、オタッキーな仲間たちと学校でネットで見つけたおもしろいネタを話したり、家でも友達とチャットしたり、メールしたり、ネットに夢中になっていました。
高校生の子供ながら無料のレンタルサーバーを借り、HTMLを本で読みながらサイトを作って、今と同じように日記をアップしていました(これが私の人生を狂わせたきっかけなのかもしれません)

自由を謳歌した大学時代。金儲けの楽しみにも目覚める?

大学時代は外国語を勉強していました。
人見知りもだいぶ治まって、クラスやサークルでたくさんの友人に恵まれました。
勉強は単位を落としつつも頑張って、無事卒業することができました。

その一方でバイトにも熱中しました。警備員やプール監視、ハンバーガーショップ、パソコンのインストラクターなど、さまざまなバイトを経験しました。
また当時から金儲けの楽しさに目覚めたようで、夏休みにいくら稼げるかチャレンジしたこともあります。
昼はプール監視、夜は警備の夜勤をやって、20万以上稼ぎました。

大学に入ってから新しく彼女もでき、いわゆるリア充的なときもありました(幼少時代から比べると随分成長したように思います。ただ彼女とは大学卒業した後に別れてしまいましたが…)

大学時代にアメブロでブログをやっていまして、高校時代と同じように日記をつけていました。
と同時に他のブログ記事なんかも読んでいて、政治に関心をもちました。
当時、格差社会とか、ホリエモンや村上ファンドの粉飾決算が問題になり、ブログで「過度な拝金主義は良くない」と批判する記事なんかを書いていました。(ちなみに結構思想は右寄りです)

そうして政治に関心を持ち、社会学的なことを学びたいと思い、大学院に進学しました。

アカデミックに目覚めた大学院時代

大学院時代には興味があった政治関係について学びました。
政策学や労働問題、地域振興についてなど、さまざまな勉強をしてきましたし、中国の上海に研修旅行にも行きました。
当時大変だったのはやはり修士論文。50ページほどの論文を2年掛けてまとめました。

文系の大学院はよく「無駄」とか言われますが、私は決してそうは思いません。
修士論文を書くことによって、理論的な視点も学べますし、文章を書くことにも慣れます。

「就職に不利になる」とも言われますが、実際はそれほどでもなく、行ってよかったなと思います。
修士論文を書きながら就活も行ない、安定を重視して地元のメーカーに就職することになりました。

社会人生活のスタート

新卒で工作機械関連メーカーに入社し、内勤営業に配属されました。
入社して1年位はひたすら電話を取ったり、現場で作業していたり、ひたすら雑用をこなしていました。
そして次第に製品を覚えてくると、今度は受注処理や見積もりなど、営業事務を担当することになりました。
最初の上司は気難しい方で、なかなか苦労した記憶がありますが、途中から上司が変わりました。

その上司はとても私を信頼して良くしてくれ仕事を任せて貰えましたし、私も上司を尊敬し、「この人のためなら……」と残業もいとわずに一生懸命働きました。
ただ、仕事だけではなくときにはタバコを一緒に吸いに行くなど、良いパートナーだったと思います。
次第に雑用中心だった私の仕事内容も、展示会の企画やカタログ、Webサイトの制作など、責任もあり面白い仕事へと変化していきました。

展示会前やカタログ、Webサイトのリリース前は深夜12時や1時に家に帰り、休日出勤ばかりしていました。
ブラック企業と思われるかもしれませんが、私は苦痛に思っていませんでした。
仕事が楽しいと思えましたし、尊敬する上司と一緒に考えながら仕事ができていたからです。

また後輩にも恵まれました。
私の隣に新入社員が配置され、教育係をしていました。
女性で一般職だったのですが、モチベーションは総合職以上。電話もバンバン出るし、気が利くし、仕事も進んで手伝ってくれました。後輩ながらとても尊敬していました。
優秀な後輩だったので、とても教えがいがあり、安心して仕事を任せられました。上司だけでなく、後輩とも良いパートナーシップが結べていたと思います。
その後輩が今の彼女なんですけどね(汗)

惚気はこれくらいにして……こうしてバリバリ仕事をするうちに、遠方の営業所の人からも信頼されるようになり、わざわざ指名で展示会の応援に行ったりもしました。
東京に大阪、仙台、福岡。日本中飛び回って、色んな所に呼んでもらい、良い経験ができました。
忙しかったですが、仕事の楽しさを味わいました。

鬱発症…そして転職

しかし楽しい期間は長くは続きませんでした。
上司が変わり、気難しい人に……どうやらカタログやWebを大幅に刷新してしまったことが気に入らなかったのでしょうか。
どうしても反りが合わず、今までやってきた企画関連の仕事は全部外され、再び雑用係に戻りました。
営業や展示会にもあまり出られなくなり、かといってこれといった指示もなく飼い殺し状態に。
倉庫の掃除を1日中していたこともあります。

「30歳になってこんなことをしてて、将来大丈夫かな…」という漠然とした不安がよぎり、精神的に落ち込みました。
そして私に転勤辞令が出たのです。
今思えば転勤なんてよくあることなのですが、心が荒んでいた私は「本社で不用になった」と悪い考え方をしていました。
そして体にも変調をきたすようになりました。
お酒を過度に飲んで急性アルコール中毒になって救急車で運ばれました。
電信柱を「バカヤロー」と言いながら殴った記憶があります。
相当もがいたのか、ブレザーやコートのボタンが全て飛んでなくなっていました。
そして「突発性難聴」という病気にも掛かりました。突然耳が聞こえなくなる病気で、ストレスが要因となります。
毎日病院に通い点滴を打たれ、「このまま耳が聞こえなくなるのだろうか…」と悲観して涙したこともあります。
幸いしばらくして耳は聞こえるようになりました。

精神科に行ったら鬱と診断され、休職を進められ、薬も貰いました。
変なプライドがあり、休職しなかったのですが、今思えばそれも良かったのかなと思います。
ただ、「このままこの会社に居続けたら体が壊れる」という思いがあり、転職する決意をしました。

幸い、企画関連のキャリアが面接で評価され、20社面接を受け、5件の内定を獲得することができました。
また仕事が暇だったこともあり、クラウドソーシングでライティングの副業もはじめました。
たかだか月収数万円でしたが、自分の腕で金が稼げて、評価してもらえる。自分で責任をもって営業から納品まですべて行う。凄く生きた心地がしました。

会社の外に目を向ければ、いくらでもチャンスはある…そうして転職をすることになりました。
何度も引き止めにあい、納得行くまで部長に話しました。

辞める日、挨拶周りをしている帰り、運転しながら自然と涙がこぼれました。
今思えば些細なことだったのかもしれません。
私ももう少し忍耐があれば違う結果になっていたのかもしれませんね。
今でも企画をやっていた頃の上司を始め、営業所の方や仲が良かった後輩とはフェイスブックや年賀状、LINEなどでやり取りしています。
辞めても繋がりをもって貰えるということは有り難いことです。

ITベンチャーへ飛び込む

そして転職先は安定したメーカーとは真逆のITベンチャーでした。
そこで私はWeb広告の仕事に携わりました。
比較的のんびりしている製造業とは比べ物にならないくらいスピード感がありました。
1年掛かっていた下積みが2週間で終わり、入社後5日で担当クライアントを貰い、1ヶ月で新規案件の立ち上げをし、新入社員が入ってくる。

必死についていかなければと思い、入社当初は知恵熱が毎日出ていました。
夜も11時くらいまで働いていましたが、やはりここでも苦痛には思いませんでした。
新しいことが学べ、仕事は面白かったし、何よりも「仕事がない」という苦痛を味わった後だったので、「仕事が無いより全然マシ」「頼りにされないよりも忙しい方がいい」と思っていました。

同僚も良くしてくれ、毎日いっしょに昼飯を食べに行っていましたし、時間があるときは飲みに行って議論を交わしたりもしていました。
彼女に話すと嫉妬されるくらい仲が良かったです(苦笑)

インターネット広告は管理画面やエクセルとのにらめっこで一見地味ですが、クライアントの成約件数をうなぎのぼりに上昇させられたところにやりがいを感じていました。
もともと興味があったネットビジネスを学ぶには良い環境でした。
そこでも私は後輩のOJTをやっていたりして、楽しい思い出がたくさんあります。

ただ一方で設定ミスをして広告費を溶かしたり、間違った広告を配信してしまったりということが相次ぎました。
ミスが起こると落ち込んで新たにミスを誘発してしまい、更に落ち込むという負のスパイラルに入ってしまいました。
上司にもお客さんにも上手く説明ができない…
そのうちに再び精神科に通い、精神安定剤や睡眠導入剤を飲む生活になりました。
「仕事に向いていない」「組織に向いてない」とふさぎ込んで、人と話すのも億劫になってきました。

と同時に、前職で持った独立願望が再燃しました。
「一人で仕事をやってみたい…」「自分の腕で稼いでみたい…」
そうして退職し、フリーランスとなりました。
ただ、この会社でも辞めた後に繋がりをもって、LINEをくれたり、食事に行ったりという関係が続いているので、有り難いことです。
また辞める前に上司と食事に行ったときに「信頼していたよ」っと言われたのが嬉しかったです。ミスをしても凝りずに仕事を任せてもらっていたのは本当に有り難いと思うと同時に、申し訳ないと思いました。

そして現在に至る

去年の11月に退職し、フリーランスとなりました。
書籍やWebサイトの記事を執筆、サイト制作に携わっています。
正直、お金や将来の不安は無いと言えば嘘になります。

でも、案件は増えつつあり、単価も上がっていて、なんとか前向きな気持ちで取り組んでいます。
そして、自分を奮いたたせる言葉にも多く出会いました。
皆様と一緒に、幸福な人生を歩んでいけたらと思います。

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